~ 君がくれたもの ~




そんなに遠くない日に、その町を離れるのは予め分かっていたことだった。

父さんの絵が完成して懇意にしている画廊に預けた日から3日後に、僕たちは父さんの求める新しい風景を探して旅立つことになった。

そのことを父さんから聞いた日、その夕方に僕は小次郎を呼び出した。隣町へと続く坂道の途中にある小さな公園で、二人でよく遊んだ場所だった。
既に秋の陽が落ちかけていて、ブランコや滑り台といった遊具が夕日の茜色に染まって眩しかったのを覚えている。

僕が勧めると、小次郎は何も言わずに大人しくブランコの一つに腰かけた。それを見届けた僕は言葉を濁したりはせずに、単刀直入に「3日後にこの町を出ていくよ」と彼に告げた。

小次郎は俯いて足元を見つめたまま、やっぱり何も言わなかった。僕が日向家に赴いて「外でちょっと話したいんだ」と誘った時から、何かを感じていたんじゃないかと思う。小次郎は決して愚鈍な子供ではなかったから。


僕も隣のブランコに腰をかける。他に誰もいない公園に、キイキイという古い金属のこすれ合う音だけが響いた。僕らは二人とも無言で、ただ黙って夕焼け色の町並みを眺めていた。沈む直前の太陽が黄金色の光で僕らを照らす。小次郎の柔らかい曲線を描く頬も、そこに生える微かな産毛も、全てが金色に輝いていた。

今この瞬間のこの彼は、なんと完全で、夢のように美しいのだろう          。

別れを告げにきたというのに、僕はすっかり彼に見惚れていた。






「・・・今度はどこに行くんだ」

やがて小次郎がポツリと呟く。視線は遠くに向けたままで。
僕は「さあ。分からない」と正直に答えた。

「雪景色を描きたいって言っているから、北に行くのかもしれない。でも途中に父さんの気に入る場所があったなら、暫くはそこに暮らすのかもしれない」

僕と父さんの生活は、さながら遊牧民のそれだった。

父さんは芸術という扱いの難しい厄介なものを生業とし、そして心からそれを愛していた。
父さんの創作への渇望のようなもの、それを満たしてくれる土地、景色を見つけるために、僕らはしょっちゅう居場所を変え、住処を変えた。
だけど父さんを満足させる風景を見つけるというのは中々の難事業で、一旦は腰を落ち着けたものの、真に求めるものとは違ったのか絵の完成を待たずにそこを去ることも度々あった。


そんな根無し草のような生活だったけれど、お金さえあれば意外と普通に暮らしていけるものだということを、僕は子供ながらに既に知っていた。
確かに父さんは一箇所に定住することはなかったけれど、別に住所不定という訳ではなかったし、税金もちゃんと払っていた。善良なる一市民であり、行政に行けば公的なサービスも受けられたし、無論僕はどこに行っても公立の小学校に通わせてもらえた。


父さんと見知らぬ土地をあてどもなく旅する生活は、全く不安が無かったかというと嘘になるし、たまに僕を置いてふらりといなくなるのはどうかとも思っていたけれど、それ以外では特に問題は無かった。
僕は豊かな自然と美しい風景に囲まれて育つことが出来たし、どこに行ってもにすぐに友達ができたから、そういう面でも苦労は無かった。愛想が良かったからか、周りの大人たちからも随分と可愛がられたように思う。
もしかしたらそこには、「母親のいない子供」という生い立ちも作用したのかもしれないけれど。


それに何と言っても、僕は父さんの才能を誰よりも信じていたし、誇りにも思っていた。

だから転校や転居を繰り返して少しくらい寂しい思いをしたとしても、せっかく仲良くなった友達と離れなくてはならなくなったとしても、それまで二人きりの生活を否定したことは無かったし、父さんと、父さんの職業を恨んだことも無かった。またそうであってはいけないのだとも思っていた。



だけど、それもこの町に来るまでのことだった。

全て、小次郎に出会う前のこと           。






「もう、こっちに戻ってこないのか?」
「それも分からない。父さんが絵のテーマに何を選ぶか、何を描きたいか次第なんだ」

小次郎はようやくこちらに顔を向けて、揺れる瞳で僕に問うた。だけどやっぱり、僕はあいまいな答えしか返せない。

僕が子供で被扶養者である以上、どこに住むか、何を食べるか、どういった暮らしをするか        そういったことは父の意思によった。その頃の僕はまだ、父の人生に付随するものでしかなかった。


小次郎はギュっと唇を引き結んで、怒ったような顔をしている。だけど僕には分かる。彼は怒っているのではなく、今にも泣きそうなのを我慢しているのだ。

僕は思わず頬を緩めた。
みるみるうちに小次郎の目に涙の膜が張り、やがてそれは限界まで膨らんでとうとう雫が零れ落ちた。一旦決壊すると、あっという間だった。涙が後から後から溢れだすのは。

その時、僕が何を感じていたか        。
下を向いて肩を震わせる彼には、きっと分からなかっただろう。僕の表情は見えなかっただろうから。

静かに涙を流す彼を前にして僕が感じていたのは、まぎれもなく歓びだった。幸福感がひたひたと胸に押し寄せていた。

「ごめんね、小次郎。僕が子供じゃなかったら・・・・せめて高校生くらいだったら、父さんと離れてこの町で一人で暮らしていくこともできたのに」
「・・・・」

小次郎は黙ってかぶりを振った。僕のせいじゃない、と言ってくれているのだろう。

可愛い小次郎。
今彼が泣いているのは僕のためなのだ。僕と離れるのが辛くて哀しいのだ。こんなにも僕は彼に必要とされているのだ        そう思うと、僕の中の何かが満たされた。

「ほら、もうそんなに泣かないで。小次郎に泣かれたら、僕も行きたくなくなるよ」

それは嘘だ。
もっと彼の涙を見たかった。多分、小次郎はこれまで大切な人との別れを経験したことが無いのだろう。愛されて真っ直ぐに育った彼の、初めて知る喪失が僕であるということ        その僥倖。

僕はうっすらと笑顔さえ浮かべていたかもしれない。

「じゃあ、行く、・・なよっ」
「・・・そんなこと言わないで」

ううん、それも嘘。

もっと言って。離れないでって、僕に居て欲しいって、ちゃんと言って。僕が必要だって、その唇で言葉に綴って        。



僕はブランコから立ち上がって、小次郎の前に立った。涙でいっぱいの瞳で僕を見上げる彼を、その手を取って立ち上がらせる。そうしてから優しくふんわりと抱きしめて、しゃくり上げる背中をゆっくりとさすってあげた。

「きっと会えるよ。また会える。サッカーさえしていれば、僕らはまたどこかで会える」
「・・・いつ?」
「それは分からないけれど・・・。1年後かもしれないし、3年かも、5年かも。でも僕はサッカーを続けるよ。何処に行っても、中学生になっても、高校生になっても。そうしたらきっと、また君と一緒にサッカーを出来るよね」

僕よりほんの少し背の高い小次郎は、しがみつくように僕の背中に腕を回した。ぎゅ、と服を掴むその手の強さに、彼の想いが込められている。

「だから、君もサッカーを続けてね。何があっても辞めたりしないって、僕に誓って」
「・・・辞める訳ねえだろ・・・。俺、これしか自慢できるもの、無いんだから。サッカーならお前にだって負けないんだから」

ぐすぐすと鼻をすすりながらも、いつもの負けん気の強い小次郎が少し戻ってきたようだった。僕は笑った。それを見て、彼はちょっとムっとしたような顔をする。そんな表情をしてもやっぱり彼は可愛らしかった。



僕たちは手を繋いで、すっかり陽の落ちた公園を後にして日向の家に向かった。













       top              next